法律をありがたがる必要はない。
法律とは、正義そのものでも、社会の総意でも、天から降ってきた真理でもない。その時点で権力を握っていた人間たちが、一定の手続きを踏んで文章にした暫定ルールにすぎない。
役に立つあいだは使えばよい。人間を苦しめるようになったら修正する。直らなければ廃止する。用途を失った条文は、古い取扱説明書と同じようにゴミ箱へ放り込めばよい。
法律は守らせる力を持っている。だが、正しさまで持っているわけではない。
「法律で決まっている」は説明ではない#
世の中には、「法律で決まっている」というだけで思考を停止する者がいる。
なぜその法律があるのか。誰が得をするのか。誰が費用を負担するのか。成立時にどんな取引があったのか。現在も目的を達成しているのか。もっと害の少ない方法はないのか。
そうした問いを全部省略し、「決まりだから守れ」で話を終わらせる。
これは議論ではない。権力の決定を読み上げているだけである。
「法律だから正しい」は、「社長命令だから正しい」「校則だから正しい」と同じ循環論法だ。誰が命令したかを答えているだけで、命令の中身が正しい理由を一つも説明していない。
「みんなで決めた」という巨大な水増し#
選挙があるから、法律はみんなで決めたものだ――という説明もずいぶん粗雑である。
国民が投票するのは、何年かに一度、何十何百という政策を抱き合わせにした政党や候補者に対してだ。個々の法律について賛否を尋ねられるわけではない。公約に書かれていない法律も作られる。選挙後に「事情が変わった」と言って、正反対の政策が実行されることもある。
2024年衆院選の投票率は約53.8%だった。自民党の比例得票率約26.7%を掛ければ、自民党へ比例票を投じた者は全有権者の約14.4%に相当する。自民・公明を合わせても約20%である。列国議会同盟の選挙結果
その票さえ、成立する個々の法律への賛成票ではない。
この細く曖昧な接続をもって、「国民が選んだ議員が決めたのだから、法律はみんなで決めたものだ」と言う。それは、私が吐いた空気を総理大臣がどこかで吸った可能性を根拠に、「私が総理を呼吸させている」と主張するようなものだ。
接続はゼロではない。だが、ほとんど無限に水増しされている。
法律は民意より、力関係を記録する#
法律を読めば、その社会の正義よりも、その時点の力関係が見える。
資金を持つ業界、組織票を持つ団体、官僚機構、政党執行部、スポンサー、受注企業。こうした主体は、投票日以外にも政治家へ接触できる。資料を渡し、陳情し、会食し、候補者を支援し、政策案を持ち込み、従わなければ支援を引き揚げると示唆できる。
一般市民には一票がある。しかし、多くの場合、一票しかない。
金と組織を持つ者には、一票に加えて接触、広告、献金、人員、情報、選挙支援がある。形式上は一人一票でも、政策形成への入口は一人一個ではない。
金が投票用紙を直接買わなくても、誰が有力候補になれるか、誰の主張が人目に触れるか、何が政治課題として扱われるか、どの政策が「現実的」と呼ばれるかは動かせる。日本の選挙でも、選挙支出が得票へ及ぼす効果を検討した研究がある。Cox and Thies, 2000
法律とは、民意を透明な文字へ変換したものではない。さまざまな力が押し合ったあと、最後まで押し返されなかった側の要求を文章にしたものだ。
オリンピックを「みんなで決めた」のか#
東京五輪直前、日本では開催反対が78%という世論調査まで東京都議会で取り上げられた。それでも大会は開催された。東京都議会速記録
ここで決定を動かしたのは、市民の選好だけではない。IOCとの契約、放映権、スポンサー、受注、すでに投じた費用、組織の存続、政治家の面子、撤退に伴う損失があった。
多数の市民は、世論調査で反対と答えることしかできない。一方、利害関係者は金、契約、情報、人脈を通じて、決定者へ繰り返し接触できる。
これを「選挙で選ばれた政治家が判断したのだから民意だ」と呼ぶなら、民意という言葉には何でも入る。市民が反対しても民意、政府が無視しても民意、スポンサーとの契約を優先しても民意である。
そこまで意味を広げた「民意」は、もはや何も説明していない。
悪法も、成立した瞬間には法律だった#
歴史上の不正義は、必ずしも無法によって行われたわけではない。
差別、弾圧、思想統制、植民地支配、女性の権利制限。その多くは、当時の制度と法律によって整然と運営された。
合法であることが正しさの証明になるなら、廃止すべき悪法など最初から存在しないことになる。だが実際には、法律が間違っていたから変えられた。
今日「当然の権利」とされているものの多くは、昨日の法律へ従順だった者ではなく、昨日の法律を不当だと批判し、正統性を認めなかった者によって獲得された。
法律を絶対視すれば、社会は過去の不正義を永久保存するだけである。
従うことと、尊敬することを分ける#
罰を避けるために法律へ従う。それは現実的な判断である。
しかし、従ったからといって、正しいと認める必要はない。合法だから善い、違法だから悪いと考える必要もない。
法律は、違反すれば国家が制裁を加えるという予告でもある。そこには実力がある。しかし、実力と正当性は別物だ。武器を持った者の命令に従うことと、その命令を道徳的に尊敬することが別なのと同じである。
法治が必要なのは、法律が神聖だからではない。権力者の気分で昨日と違う処罰をされるより、事前に公開され、権力者自身も拘束するルールの方がましだからだ。
法は崇拝の対象ではない。権力を縛るため、市民が利用する道具である。
法律を神棚から工具箱へ移せ#
法律を神棚に置くな。
金槌やドライバーと同じく、社会を運営するための工具箱に置けばよい。役に立つなら使う。壊れていれば直す。人を殴るために使われているなら取り上げる。用途を失ったら捨てる。
法律だから尊いのではない。
人間を守る法律だから利用価値がある。人間を踏みつける法律なら、その価値は使用済みの包装紙以下である。
「法律で決まっています」と言われたとき、頭を下げてはいけない。
問うべきことは一つだ。
それで、なぜその法律が正しいのか。
相手が「法律だから」としか答えられないなら、答えは出ている。
その法律には、権力以外の根拠がない。